エクアドルサッカーについて

 南米と聞いて、「サッカー」をイメージする日本人の数は少なくない。確かに南米はサッカーを語る上で非常に重要な地域である。ブラジルやアルゼンチンはもとより、パラグアイやウルグアイなども強豪として知られる。そんな南米だが、南米サッカー連盟加盟国(CONMEBOL)10ヶ国中、20世紀中にW杯に出場できなかった国が2ヶ国存在する。それがエクアドルとベネズエラである。ベネズエラは、ここのところ代表の強化が進んでいるものの、基本的にサッカーよりも野球が盛んという南米の中でも異質なお国柄なためW杯の出場経験が無いのも納得できる。問題はエクアドルである。昔から普通にサッカーが盛んなのに、21世紀に入るまでW杯出場さえ叶わなかった。

 エクアドルにおいて初めて公式なサッカーマッチが行われたのが1900年。最初のサッカークラブが設立されたのがその2年後の1902年であり、エクアドルサッカー連盟は1925年に創立され、その翌年にはFIFAに加盟した。1930年にはウルグアイで第1回のFIFAW杯が開催される。実はこのW杯参加の打診を受けていたエクアドルだったが、「渡航費が捻出できない」という今から思えばとんでもない理由で、W杯出場の道を自ら絶ったのだ。当時はその後70年以上も出場できないとは思いもよらなかったであろう。その因縁かエクアドルサッカー界は1990年代に入るまで苦難の道のりを辿る事になる。

 その間、たまにLDUキトやエメレク、バルセロナSCなどがリベルタドーレス杯で活躍するものの、国際舞台でのエクアドルサッカーの存在感は皆無に等しかった。そんな中、この時代のエクアドルサッカーを語る上で欠かせない人物がいる。その男の名はアルベルト・スペンサーという。スペンサーは1937年、エクアドル・グアヤス県生まれのストライカー。デポルティボ・エベレスト(1962年にはエクアドルリーグを制覇したこともあるクラブだが、今はグアヤス県の地域リーグに所属)で頭角を表すと、ウルグアイのペニャロールに引き抜かれ、エースとして活躍。リベルタ杯の通算ゴール数54は未だに破られていない大記録である。エクアドル代表経験はもちろん、なんと彼はウルグアイ代表としても4試合ほどプレーしている。規則が曖昧な時代を偲ばせる。

 このようなスペンサーの活躍などがありながらも、代表チームの強化は遅々として進まず、隣国のペルーやコロンビアの後塵を拝す状況だった。昨年の12月、LDUキトをを成田空港に迎えに行った際、たまたまお会いすることができたホルヘ三村さんはかつてのエクアドル代表チームの弱さについてこう仰っていた。「全員がボールに向かっていくサッカーだった」と。

 そんなエクアドルサッカー界に革命をもたらしたのは1988年に代表監督としてユーゴスラビア(当時)から招聘されたドゥサン・ドラスコビッチである。彼は後にエクアドルサッカーの聖地と言われるようになるチョタ谷やエスメラルダスなどエクアドル全土を隈なく回り、選手発掘に勤しんだ。イバン・ウルタド、アグスティン・デルガド、ウリセス・デ・ラ・クルス、アルフォンソ・オブレゴンなど、その後のエクアドルサッカーを支えていく選手は彼が発掘した。また、それまで白人が重視されていた代表の人選を一変させ、人種を分け隔てなく招集するようにしたのも彼の功績の一つである。改革の効果はすぐ表れ、1993年のコパ・アメリカでは、自国開催とはいえ史上初のベスト4を進出を果たした。また、忘れてはならないのが、1990年のバルセロナSCリベルタ杯準優勝である。惜しくも決勝ではパラグアイのオリンピアに破れ日本行きはならなかったものの、エクアドルサッカー躍進の萌芽といえる出来事であった。

 98年のフランスW杯予選ではW杯出場はならなかったものの健闘し、6位で終えた。また、ホセ・セバジョスやアグスティン・デルガドを中心としたバルセロナSCは再度リベルタ決勝まで進むが、ブラジルのバスコダガマに破れ、悲願の南米制覇は叶わなかった。

 W杯出場に手応えを感じていたサッカー連盟は、日韓W杯出場を目指すべく代表監督にコロンビア人のエルナン・ダリオ・ゴメス監督を就任させた。アレックス・アギナガやウルタド、デ・ラ・クルス、デルガドと、各ポジションにタレントを擁し、ブラジルの不調などをもあり見事2位でW杯出場を決めた。エクアドルサッカーの芽生えから100年後のことだった。

 見事初出場を果たした2002年の日韓W杯では、エクアドルはイタリア・メキシコ・クロアチアとエクアドル以外はフランスW杯でベスト16以上に進出しているという、「死のグループ」に入ってしまった。イタリアには力負け、メキシコには善戦するも逆転されて3戦全敗も濃厚となったが、前回3位のクロアチア相手にはメンデスのゴールによる虎の子の1点を守りきり見事W杯初勝利を飾った。

 ドイツW杯南米予選では苦戦しながらも何とか2大会連続のW杯出場を果たした。本戦では、グループリーグでポーランドに2-0、コスタリカに3-0と完勝。ドイツには負けたもの、2度目の出場でベスト16進出を果たした。決勝トーナメントではイングランドと当たり、惜しくもベッカムのFKに屈するが、強豪国相手に見劣りをする戦いではなかった。

 そして2008年。リベルタドーレス杯に前年度のエクアドル王者として参戦したLDUキトは、知将バウサの下で快進撃を続け、エクアドル史上3度目となる決勝に進んだ。決勝の相手はブラジルのフルミネンセ。勝負はもつれにもつれ、トータルスコア5-5となりPK戦へ。フルミネンセ4人目のキックをセバジョスがセーブした瞬間、LDUキトがエクアドル史上初となるリベルタ王者となった。その年の12月に日本で行われたクラブW杯では幸先よく決勝に進出したが、マンチェスター・ユナイテッドの前に涙を呑んだ。

 エクアドルサッカーはここ10年で大きく躍進を遂げた。しかし、現在のエクアドル代表には問題が山積している。最も憂慮すべきなのが「高齢化」である。現在の代表のキーパーとセンターバックはセバジョス、ウルタド、ジョバンニ・エスピノサだが、なんとこの顔ぶれは10年前の日韓W杯予選時と全く同じなのである。ウルタドに至っては代表キャップ数が157という異例の数字を記録している。オフェンス面ではここ10年でメンデス、バレンシア、ベニテス、ゲロン、カイセド、ボラーニョスと断続的にタレントを輩出しているものの、ディフェンス陣は上記の3人に頼らざるを得ない苦しい状態が続いている。いくら有能な選手達とはいえ、衰えとは必ず来るものだ。実際、最近の試合は守備が崩壊する場面が散見されている。代表のこの「過渡期」をどう乗り越えるかが今後の課題といえるだろう。

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